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数十年前は勝頼は単なる凡庸な敗軍の将扱いでしたが、ここ最近になって相当評価が上がってきた武将だと思います。
信玄からの引き継ぎが上手くいかなかったの一言に尽きるでしょうね😢家康はかなり教訓にしたことでしょう🎉
偉大な武田信玄公の残した負の部分を勝頼公が全て一身に背負ってしまった。たまたま先月に田野の地に行って来たばかり。慰霊塔の前に立つと涙が出そうでした。
勝頼は一番好きな戦国武将です。昨今評価が上がっていて嬉しく思います。
伊東先生ご友人の実際の経験談が、とても実際的で心に残った❤
どうする?の勝頼、めっちゃめちゃカッコいいよ。かなりの策士だし、武勇も優れてる。信長や家康よりイケメンだし。
ウシジマ君に似てますよね。
武田勝頼を番組で取り上げてくださりありがとうございます。武田勝頼の成功のお話で、長篠の戦いで負けたのち北条氏と戦い善戦したことには、驚きでした。番組が、待ち遠しいです。また、自分の適性を見極めることの重要性も大切なことに気づきました。私も、管理職よりも現場で働いていたほうが性に合っているとおもいました。とっても良いことに気づきました。ありがとうございます。😊
北条は片っ端から勝頼に城を落とされて、武田に寝返る城も出てきて滅亡の危機に瀕したので織田と徳川に泣きついた結果、甲州攻めしてもらえて助かった様です。
とっても詳しい内容の返信ありがとうございました。😊何故武田家が、滅亡したかの原因の一つが理解できて増々興味が湧いてきました。ありがとうございましす。😊
歴史戦国大好き❤トラックドライバー30年休憩中就寝前の子守唄のように聞いてますよ僕も断然武田信玄が超大好きです🤣歴史人では坂本竜馬!人生人との関わり教材になりますこれかも逸話まだまだあると思います楽しみに見てます!🥰
これは伊東先生のこと?、中西さんナイス突っ込みです👍
好きな武将。 徳川が長く続いたのは、武田、織田、豊臣を見ていたからだと思う。
御館の乱で上杉景勝を支援し北条との関係がこじれたのが痛恨の極み
高天神城落としたのも信玄は無理して落とさなかったのだ、勝頼は無理しただけ、等さんざん信玄を持ち上げ勝頼をこきおろす風潮で聞かされてきたので自分もそのイメージを引きずってきてしまったが本当のところを知りたい。長篠の戦いでも織田徳川軍も3万8千人中6000人も死んでるというが、戦いの描写においてこれが全く伝わってこないのも残念。あの陣形でこれだけ損害与えたのは武田の強さは驚異的だと思うのだが。
長篠の戦いの敗戦後、武田勝頼が迅速に戦力の再整備に成功して信長を恐れさせたことを考えれば、決して無能な武将では無いと思うし、武田義信が廃嫡されなかったら、勝頼は義信を支える優秀な前線指揮官の一人として才能を発揮していたと思う。信玄の突然の死により、スムーズな権力移譲ができなかった点や、織田・徳川連合との破綻した外交状態を引き継がなければならなかった点を考えれば、武田家滅亡の遠因は、むしろ信玄にあると言えるだろうし。
長篠の戦いの後、家康が武田領に攻め込みましたが勝頼は軍の編成を迅速に行い、2万の軍勢が待ち構えており家康は驚いたそうですね。
義信事件が起きなかったら、義信が島津家の義久、勝頼が義弘、盛信が歳久、葛山家に養子に入った信貞か安田家に養子に入った信清辺りが家久のような立ち位置になっていたかもしれませんね。
無能どころか、あの厳しい環境下ではよくやったと思いますよ。ただ悪運が続いたかな。また問題点はやはり武田軍団=信玄軍団だったことか。こんなこと言ったら叱られるでしょうが、武田を滅ぼして諏訪と母の仇を討てたという見方もあるかな。勝頼は、諏訪の党首として生き死んだ方が幸せだったと思いますよ。また勝頼はともに死んだ妻への配慮などを見るとあまりにも優しすぎたかな、信玄とは大違いでござる。
うさぎさん。かあいい。。。
武田勝頼の従兄に今川氏真と穴山梅雪がいます。
二代目が成功するか否かは参謀によるところが大きいと思います。例えば…上杉には直江兼続、毛利には毛利の両川など。勝頼の悲劇は自身が強すぎた為、進言できる家臣が居なかった事だと思います。
正直? 勝頼に 真っ当な優秀な家臣居なくね? 木曾、穴山、小山田笑えてくる 勝頼公に官兵衛見たいな 家臣ヶおれば。
@@ゲトリクスうぇるきん当時真田昌幸はいましたけど、名門の武田家では外様扱いでしたからそれほど発言力がないのが痛かったですね。ですが北条との同盟破綻後勝頼は昌幸を重用し、上野戦線で優位になったらしいです。 しかし、あくまでも外様である昌幸を重用しすぎたら他の家臣達が不満を抱いて何をしてくるか分からないでしょうね。その相手が長坂や跡部かもしれませんし、穴山や小山田、木曽かもしれませんし、はたまた従兄弟の武田信豊かもしれません。
長篠の敗戦から完璧に建て直したは言い過ぎかもしれませんが。これまでの長篠戦いでの古い戦法に拘って敗北し、その後お家を潰した愚将というマイナスすぎるイメージからするとかなりの名将であったと言っていいと思う。信長と戦い抜いて散っていったというのも違う意味で魅力的に思える。
上杉の内乱への介入が悪手すぎたのもあるなあ……あれで北条と完全に対立するし、味方にした上杉は当てにならないし
上杉景虎が勝ってればもしかしたら上杉、武田、北条の同盟ができてたかも
@@satumahayato7579其 可能性も有るけどもっと早く攻め滅ぼされてた可能性も有るしね。
かと言って、北条からの景虎支援要請を家康の蠢動を許す危険性があるからと言って断る訳にもいかなかったですからね・・・
北条が敵対した事がかなり痛かったかな!織田、徳川に対抗するには北条、武田、上杉が手を組み時間を稼ぐ事が必要だったかなと!その状態で本能寺の変を迎えればほんとわからんかったかな
信玄の後先考えない好き放題が祟って、その後の負の遺産を一身に背負いながら彼なりに足掻いた一生に魅了されますもう少し信玄が長生きしてればまだ違ってたかもな…
私は武田信繁や山本勘助が生きている、もしくは義信廃嫡後に信玄が実権こそ握るが勝頼に家督を譲っておくとかした方が武田家滅亡の結果は変わらないとしても、勝頼の運命は少しは違ったと思ってます。
武田も上杉も後継者を正式に決めて隠居してなかったのがそもそも間違いやな。そこが織田信長との大きな違い。ただ信長の誤算は信忠が逃げなかった事…
確かにそうですね。信長は危険が迫るとすぐ退却をしていました。色々信忠に教育をしたと思いますが、そういう所は実際起こったら自らの判断で行動して欲しかったんでしょうか。
勝頼、可哀想😢
悲運の武将
優れた武将だっただけになぜ長篠の敗戦は避けれなかったか考えてしまう(本編が楽しみ)
ムシロ、重臣の方が 積極攻勢策を提示した説ある。重臣を止められなかった説。勝頼公程の知将ナラ 戦力差は歴然として理解し撤退誘致迎撃策や包囲籠城策を選んだ可能性ヶ高い。
@@ゲトリクスうぇるきん その説も否定できなくはないですよね。 武田家家臣達は名門意識や独立心、領土欲が強い者が多かったらしいですし、戦の費用は家臣達の出費であり、戦の後の米や銭の略奪や、城下町や村で攫った人や討ち取った兵から剥ぎ取った鎧兜や刀などを売り払ってその出費を取り返すのですから。しかも武田領は信虎や信玄の時代からずっと重税がかかるから、なんとしても戦で略奪したいと思うでしょうし。
いろんな説があるが、どうも鉄砲数と質で互角であれば武田軍が勝っていた?それほど武田軍は強かったようだ。ただ過去の織田の戦いを知る旧臣達は「織田が直接来る以上はとにかく勝算大なのだろう」とふんでいたようだ。「兵法の基本~相手を知る」が勝頼は不足していたことは否めない。
@@phoenixgold3593単純に攻城戦を兵数で劣勢な方がやったからだと思う。長篠の戦いは織田が陣地を築いて、そこに武田が仕掛けるという形になっていたそう。兵数で3倍の敵に実質的な攻城戦を仕掛けて勝つことは非常に難しい。
@@ゲトリクスうぇるきん前にしたコメント消えてますが、その説も否定できなくは無いですよね。武田家家臣達は名門意識とかが強かったらしいですし、元は守護代の家臣筋の織田や三河の土豪上がりの徳川という素性の怪しく身分も低い、卑しくて格下の家柄の相手に戦いもせずにのこのこと撤退する事を主張するのか?とか、彼らだって陪臣(家臣の家臣)や領地の民達に恩賞を出さなければならない立場なのに、戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない上に自分達も陪臣や民達に恩賞を出せない、そうなったら陪臣や民達から自分に対する不満が出る事を容認できるのか?とか様々な疑問があって然るべきだと思います。
背景写真の説明して欲しいテロップでも良いのでお願いします🎉
勝頼には子どもや甥はいなかったのでしょうか?家臣の誰かが武田の血を引いた子を安全な場所に匿うことができたら、一族が滅亡することは避けられたのではないでしょうか?
武田勝頼公の嫡男は、武田信勝公ですね。
信玄没後武田勝頼が生き残れたのは何回か有ると思います。其の一長篠設楽原合戦回避・其のニ越後御館の乱での景虎支援・其の三真田昌幸居城岩櫃入城。この三つが特にターニングポイントではないでしょうかね?其の一では回避にて兵力温存が出来て、其のニでは景虎支援で北条にも借りを作り甲・越・相の新三国同盟が成り足元を強化。其の三では其の一とニが叶わなかった最後の道として真田昌幸の岩櫃城に籠城して織田徳川が攻めて来たならば昌幸得意の岩櫃城の断崖絶壁等の特徴を活かしたゲリラ戦法で城を攻めようとする織田徳川の軍勢を一時的にでも退け持ちこたえる事を考える形でその間に史実通り本能寺の変が勃発した時に勝頼が軍勢を立て直して反撃に転ずる可能性が有ったと感じます。
全部無理だと思います。設楽ヶ原合戦を回避しても、信長や家康が「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝してきて、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、彼らの離反を誘発していたと思います。甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。戦の費用や兵糧は家臣や国衆達の自己負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺や陪臣、俺の領地の民達はどうやって食べていけばいいんだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」という風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけになった家臣達は不満を抱いていたでしょう。仮に家臣や国衆達が不満を抱かなかったとしても、陪臣や民達が不満を抱いたらその声は無視できないから、家臣達は何をしでかすか分からないと思います。今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれないって私は思います。仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。御館の乱にしても、謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていたらしいです。 根拠は景勝が謙信から弾正少弼の官位を譲られている事と、謙信死後に景勝の元に諸大名からの使者が多く来ていたからです。しかし景勝とある家臣が越後の隣国の会津の蘆名絡みで対立し、前関東管領の上杉憲政らが景勝とその家臣の仲裁に動いた。 しかし景勝はその家臣に対し自分に忠誠を誓う内容の誓紙を血判を入れて提出するように求めるなど強硬姿勢だったらしいです。この事に憤慨したその家臣が景勝派の家臣の城を攻撃し、上杉憲政らもその動きに同調して反景勝派を形成し、自分達の行動を正当化する為の御輿として景虎を担ぎ出したのが御館の乱の実像だと思います。長く領国を留守にしたら家康の蠢動を許す危険性がある。北条の動きが少し前まで佐竹と対峙していたとはいえ遅く、自分達だけに景勝と戦わせ、弱ったところを両方とも滅ぼす気ではないかと不信感を抱くのも納得でしょう。北条家出身の景虎が上杉家当主になったら、武田領が東と北を北条の勢力に挟まれてしまう。 そうなったら北条氏政は武田との同盟を破棄して弟の景虎を操り、武田を東と北から挟み撃ちにしてくるかもしれない。 そうならなかったとしても、武田と北条の力関係が崩れ、武田家が北条の属国のような扱いになるかもしれない。 真田などの上野や北信濃に領地を持つ家臣達が離反してしまうかもしれない。そこで景勝と景虎の和睦仲介という手を打ち、一度は和睦を成立させたがすぐに破綻。更に勝頼の懸念が的中して家康が駿河辺りに侵攻してきた。 勝頼が家康の対処の為に越後を離れたのがちょうど北条氏邦だか氏照の軍勢が景勝派の家臣の城を攻めるところだった為に北条に「武田は景虎を見捨てて逃げた」という印象を与えたらしいですが、そもそも氏政が本気で景虎を支援する気があったとは氏政が最後まで越後に討ち入らなかった事を考えるとそう思えません。氏政は景虎が勝利すれば上杉家を乗っ取る算段がつく、景勝が勝利して景虎が死んだとしても、内乱が長引けば長引くほど上杉家の力は弱まり、関東に侵攻される事はないとどちらに転んでも良かったと考えていたのではと見る方が自然だと思います。岩櫃城に行くのは甲斐から険しい山道を越えて上野までしかも噴火している浅間山の付近を通りながら行くのは危険だから不可能だと思います。
武田勝頼公 長宗我部元親公 等 知名度低いけど懸命に努力した 武将こそ 大河ドラマにするべき。織田?豊臣?徳川? 三英傑は もーエエヨ
土地が豊かなら滅亡はなかったんじゃないかな
勝頼様は強くて賢かったんだね。長篠設楽原の戦さえ引いていたら、歴史は変わっていたかもだよ。
私は長篠で撤退すればよかったとは思えません。勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めがいずれも失敗したからだったにせよ、ここで撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。これらの理由から、長篠で撤退していたら、「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺や陪臣、俺の領地の民達はどうやって食べていけばいいんだ。 しかも戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと素性の怪しく卑しい家柄の織田や徳川に喧伝されて俺達の面子は丸潰れだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」と風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からない。今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。勝頼が家督継承した前後の武田家の状況信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。織田と敵対した事で、鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事、その事で家康を激怒させて武田に無断で今川と和睦し、上杉や北条と結んで武田包囲網を作り、信長に武田と手を切るように何度も求めていたらしい事から無理。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。この状況を打開するにはまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然だと思うし、私もそう判断すると思います。撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という耕作に向いた地を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。また、織田に臣従すればという意見もありましたが、それは鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名として勝頼も家臣達も受け入れ難いでしょうし、もし勝頼本人が織田に臣従しようとしたら、家臣達が自分達を守ろうとしない大名などいらないとばかりにかつて信玄が板垣や甘利らに担ぎ出されて信虎を追放したように、勝頼を追放するか殺して排除し、別の誰かを武田家当主に担ぎ出して傀儡当主にすると思います。
@@峻-k5k そうした考えもあるんですね、私とは違う。(凄く長い文面でした!!)
僕は、武田信玄公と武田勝頼公と徳川慶喜公が一番大好き💓♥️❤️です🎵勝頼公と慶喜公が不運です🎵大久保利通と後醍醐天皇と伊達政宗公と明智光秀公も大好き💓♥️❤️です僕は、徳川家康と織田信長と足利尊氏と松平容保と豊臣秀吉が一番大嫌い😭💔です🎵清州城と安土城と岡崎城と松本城と浜松が一番大好き💓♥️❤️です
親子二代で三国同盟を壊す、というのは、偶然でしょうか?
前の方が面白かった。
家康が徹底して武田を滅ぼそうとしたのも、織田が講和を拒否して根切りに拘ったのも武田勝頼がそれだけ脅威だったと考えています。これは信長の書状からも読み取れますが、実際に織田領が何度もやられていて、軍事だけでなく調略も何度も仕掛けられている。血筋は源氏で若さも能力もある。事業継承の段階に入っていた信長としては非常に脅威だったでしょうね。長篠の戦いでも徳川の防衛戦に織田が3万とも言われる大軍を派遣するなど普通考えてもあり得ない。あれは徳川の防衛戦で重要拠点を守る戦いでもない。織田側はまだまだ周囲に敵を抱えている状態。そこに信長は3万もの大軍を送った。戦い方も長篠城をすぐに救援するのではなく、馬防柵で徹底して守備を固める方針。不運な事に勝頼は信長がこれほど自分を脅威に感じているとは考えてなかったのでしょうね。
そもそも親父の信玄が信濃攻略後、優秀な嫡男を自ら殺した代償に侵攻しても駿河の一部しか取れず、長期戦略も立てられず10年間停滞させた上に、たった10万石確保と引き換えに優秀な弟信繁を失ったこと。信玄自体は幼少の頃より神童と呼ばれ、甲斐の不利な条件から良くやったと思うし優秀だけど、名声を成した実態の多くをよく見ると信濃の弱小勢力各個攻略だけ。やってることも、騙し討ちや同盟破って火事場泥棒とか信義にもとる事を平然とやってたりと、行動が意外にショボい。逆に10年間に急成長させた信長の方が、既存の枠組みの中で段階を踏んだり、筋を通して進めたりと、意外に真面目。
一門の扱いを受けないで、後継ぎでは無いと宣言されて、武田を切り盛りして、よく頑張った。この扱いじゃ実力は出せない。信玄を含めて味方から負ける様に仕組まれて、腹が立つ。私だったら、私は一門じゃないので勝手にやってくださいと書き置きして、出奔します。
信玄公があれほど5年は和菓子を隠せと遺言したのに・・・茶棚に和菓子を隠しておけば食べられずに済んだかもしれません。
上手い掛詞ですね。あっぱれです🎉泰平の眠りをさます蒸気船....を思い起こします😊
こんな戦いばっかりされたら、民や家臣はついてこない。小城をいくら落としても、領国経営ができなければ国力が疲弊していくのみ。
長篠で大敗したのは事実だけど、信玄も何度も大敗して家臣殺しまくってるからねそこから持ち直せるだけの余裕を時代が彼に与えなかった
上田原の戦いや砥石崩れですね。 信玄の時代にはまだ小勢力が結構残ってましたけど、勝頼の時代には畿内一円、濃尾平野などを領国にする織田家が一大勢力を築いていましたからね・・・
御旗楯無 御照覧あれ、この言葉が大嫌いすぎる。有無も言わせず、大量の鉄砲に突撃とか意味がわからん。
アホだと私たちは思うが、当時の武士は、それが誉れ?だったんでしょ。そんなのをまったく無視したから、信長は勝ったわけで。
バブルの再来を夢見て有無を言わせず24時間戦わせ結果経済の崩壊を招いた現代の日本は御旗楯無〜を全く笑えない。
最近では逆に山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら重臣達が決戦を主張して、武田家での立場が弱かった勝頼は重臣達の総意を受けて決戦したという話もあるらしいです。武田家家臣達は名門意識や独立心、領土欲が強い者が多かったらしい。 そんな彼らが素性が怪しく、東美濃攻めでまともに戦っていない織田や、織田と同じく素性が怪しい身で、三方ヶ原で破った徳川を相手に戦いもせずにのこのこと撤退する事を主張するのか?当主の意見を通しやすい環境だった織田家とかと違い、武田家は豪族達の連合体という政治体制。 そんな中で勝頼が決戦を強行なんてできるのか?という疑問から私はその話を否定はできないと思っています。そもそもこの時の勝頼の出陣の目的は、家康公の長男信康が城代を務める岡崎城の奉行、大岡弥四郎の内通を受けた岡崎城乗っ取りだった。しかし大岡の謀反が家康に露見して岡崎城乗っ取りが頓挫。 ならばと三河と遠江の分断を狙って今の豊橋付近にあった吉田城を攻めて失敗した上での長篠城攻めです。ここで撤退したら、武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで戦いもせずに尻尾を巻いて逃げたと信長や家康が喧伝し、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速するだけの結果になったと思います。甲斐や信濃の国衆達も、信虎や信玄の時代からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しの撤退じゃ恩賞が貰えない。遠征費は家臣達の自腹であり、その出費は城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や、討ち取った兵から剥ぎ取った鎧兜や刀などを売り払って取り返すのに、それができない。しかも武田領の金山は、当時の採掘方法ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣達の遠征費分の出費を勝頼が補填できない。その事に不満を抱いた家臣達が何をしでかすか分からないと思います。
単なる情弱だったんだろうね。日本では硝石が取れなかったから、勝頼は攻め続けていれば硝石が切れて攻撃は止むと考えていたようだ。しかし、信長は堺を抑えて、長篠までの街道も全て押さえてたから、勝頼の想像以上の硝石を持っていた。
過大評価の武田晴信のとばっちりを受けた将
謙信嫌いの人が何を言う
@@krkm9004 またお前かしつこいマルチポスター武田晴信と上杉輝虎のファンのようだ
@@sugisinfkk 嘘ばっかり😊
@@krkm9004 自分でいいね輝虎ファンのマルチポスト
@@sugisinfkk 嘘ばっかり
まぁ勝頼が悪いのは北条との縁を切ったこと。あとは信玄が悪い。信玄なんであんなに評価されてるんだろう?自分の嫡男を殺して、同盟切って今川に攻めて。最後は信長と戦って、病で倒れる。悪手すぎる...武田は家臣が優秀すぎただけ。
同感
現代の政治の事実も本質も不明な部分が多いのに、500年以上前の話しを自信たっぷりに、さも事実のように解説しない方が良い。ではないか?
まあ不憫なのでかわがってもらう?ようにして(実は我慢)、10年してから変身!!!!!!旧家臣団を入れ替わる→こう絵に描いたようにはいきませんか。ただ私は、実は勝頼は真の敵、武田と信玄軍団を滅ぼし母と諏訪の仇を討ったのだと思っています。とかく信玄はえぐい。好きにはなれない。父を追放、息子も殺す~そんなにしてまで信玄帝国を作りたかったのかな?なら勝手にしろ、ただし家族は巻き込むな~といいたいですよ。勝頼は、諏訪の党首として生き死んだ方が幸せだったと思います。まあここいらは、その人の運というか人生のようですね。
数十年前は勝頼は単なる凡庸な敗軍の将扱いでしたが、ここ最近になって相当評価が上がってきた武将だと思います。
信玄からの引き継ぎが上手くいかなかったの一言に尽きるでしょうね😢
家康はかなり教訓にしたことでしょう🎉
偉大な武田信玄公の残した負の部分を勝頼公が全て一身に背負ってしまった。たまたま先月に田野の地に行って来たばかり。慰霊塔の前に立つと涙が出そうでした。
勝頼は一番好きな戦国武将です。昨今評価が上がっていて嬉しく思います。
伊東先生ご友人の実際の経験談が、とても実際的で心に残った❤
どうする?の勝頼、めっちゃめちゃカッコいいよ。かなりの策士だし、武勇も優れてる。信長や家康よりイケメンだし。
ウシジマ君に似てますよね。
武田勝頼を番組で取り上げてくださりありがとうございます。
武田勝頼の成功のお話で、長篠の戦いで負けたのち北条氏と戦い善戦したことには、驚きでした。
番組が、待ち遠しいです。
また、自分の適性を見極めることの重要性も大切なことに気づきました。
私も、管理職よりも現場で働いていたほうが性に合っているとおもいました。
とっても良いことに気づきました。
ありがとうございます。😊
北条は片っ端から勝頼に城を落とされて、武田に寝返る城も出てきて滅亡の危機に瀕したので織田と徳川に泣きついた結果、甲州攻めしてもらえて助かった様です。
とっても詳しい内容の返信ありがとうございました。😊
何故武田家が、滅亡したかの原因の一つが理解できて増々興味が湧いてきました。
ありがとうございましす。😊
歴史戦国大好き❤トラックドライバー30年休憩中就寝前の子守唄のように聞いてますよ僕も断然武田信玄が超大好きです🤣歴史人では坂本竜馬!人生人との関わり教材になりますこれかも逸話まだまだあると思います楽しみに見てます!🥰
これは伊東先生のこと?、中西さんナイス突っ込みです👍
好きな武将。 徳川が長く続いたのは、武田、織田、豊臣を見ていたからだと思う。
御館の乱で上杉景勝を支援し北条との関係がこじれたのが痛恨の極み
高天神城落としたのも信玄は無理して落とさなかったのだ、勝頼は無理しただけ、等さんざん信玄を持ち上げ勝頼をこきおろす風潮で聞かされてきたので自分もそのイメージを引きずってきてしまったが本当のところを知りたい。
長篠の戦いでも織田徳川軍も3万8千人中6000人も死んでるというが、戦いの描写においてこれが全く伝わってこないのも残念。あの陣形でこれだけ損害与えたのは武田の強さは驚異的だと思うのだが。
長篠の戦いの敗戦後、武田勝頼が迅速に戦力の再整備に成功して信長を恐れさせたことを考えれば、決して無能な武将では無いと思うし、武田義信が廃嫡されなかったら、勝頼は義信を支える優秀な前線指揮官の一人として才能を発揮していたと思う。信玄の突然の死により、スムーズな権力移譲ができなかった点や、織田・徳川連合との破綻した外交状態を引き継がなければならなかった点を考えれば、武田家滅亡の遠因は、むしろ信玄にあると言えるだろうし。
長篠の戦いの後、家康が武田領に攻め込みましたが勝頼は軍の編成を迅速に行い、2万の軍勢が待ち構えており家康は驚いたそうですね。
義信事件が起きなかったら、義信が島津家の義久、勝頼が義弘、盛信が歳久、葛山家に養子に入った信貞か安田家に養子に入った信清辺りが家久のような立ち位置になっていたかもしれませんね。
無能どころか、あの厳しい環境下ではよくやったと思いますよ。ただ悪運が続いたかな。また問題点はやはり武田軍団=信玄軍団だったことか。こんなこと言ったら叱られるでしょうが、武田を滅ぼして諏訪と母の仇を討てたという見方もあるかな。勝頼は、諏訪の党首として生き死んだ方が幸せだったと思いますよ。また勝頼はともに死んだ妻への配慮などを見るとあまりにも優しすぎたかな、信玄とは大違いでござる。
うさぎさん。かあいい。。。
武田勝頼の従兄に今川氏真と穴山梅雪がいます。
二代目が成功するか否かは参謀によるところが大きいと思います。例えば…上杉には直江兼続、毛利には毛利の両川など。勝頼の悲劇は自身が強すぎた為、進言できる家臣が居なかった事だと思います。
正直? 勝頼に 真っ当な優秀な家臣居なくね?
木曾、穴山、小山田
笑えてくる
勝頼公に官兵衛見たいな 家臣ヶおれば。
@@ゲトリクスうぇるきん
当時真田昌幸はいましたけど、名門の武田家では外様扱いでしたからそれほど発言力がないのが痛かったですね。
ですが北条との同盟破綻後勝頼は昌幸を重用し、上野戦線で優位になったらしいです。 しかし、あくまでも外様である昌幸を重用しすぎたら他の家臣達が不満を抱いて何をしてくるか分からないでしょうね。
その相手が長坂や跡部かもしれませんし、穴山や小山田、木曽かもしれませんし、はたまた従兄弟の武田信豊かもしれません。
長篠の敗戦から完璧に建て直したは言い過ぎかもしれませんが。これまでの長篠戦いでの古い戦法に拘って敗北し、その後お家を潰した愚将というマイナスすぎるイメージからすると
かなりの名将であったと言っていいと思う。
信長と戦い抜いて散っていったというのも違う意味で魅力的に思える。
上杉の内乱への介入が悪手すぎたのもあるなあ……あれで北条と完全に対立するし、味方にした上杉は当てにならないし
上杉景虎が勝ってればもしかしたら上杉、武田、北条の同盟ができてたかも
@@satumahayato7579其 可能性も有るけど
もっと早く攻め滅ぼされてた可能性も有るしね。
かと言って、北条からの景虎支援要請を家康の蠢動を許す危険性があるからと言って断る訳にもいかなかったですからね・・・
北条が敵対した事がかなり痛かったかな!
織田、徳川に対抗するには
北条、武田、上杉が手を組み
時間を稼ぐ事が必要だったかなと!
その状態で本能寺の変を迎えれば
ほんとわからんかったかな
信玄の後先考えない好き放題が祟って、その後の負の遺産を一身に背負いながら彼なりに足掻いた一生に魅了されます
もう少し信玄が長生きしてればまだ違ってたかもな…
私は武田信繁や山本勘助が生きている、もしくは義信廃嫡後に信玄が実権こそ握るが勝頼に家督を譲っておくとかした方が武田家滅亡の結果は変わらないとしても、勝頼の運命は少しは違ったと思ってます。
武田も上杉も後継者を正式に決めて隠居してなかったのがそもそも間違いやな。
そこが織田信長との大きな違い。
ただ信長の誤算は信忠が逃げなかった事…
確かにそうですね。
信長は危険が迫るとすぐ退却をしていました。
色々信忠に教育をしたと思いますが、そういう所は実際起こったら自らの判断で行動して欲しかったんでしょうか。
勝頼、可哀想😢
悲運の武将
優れた武将だっただけになぜ長篠の敗戦は避けれなかったか考えてしまう(本編が楽しみ)
ムシロ、重臣の方が 積極攻勢策を提示した説ある。
重臣を止められなかった説。
勝頼公程の知将ナラ 戦力差は歴然として理解し
撤退誘致迎撃策や包囲籠城策を選んだ可能性ヶ高い。
@@ゲトリクスうぇるきん
その説も否定できなくはないですよね。 武田家家臣達は名門意識や独立心、領土欲が強い者が多かったらしいですし、戦の費用は家臣達の出費であり、戦の後の米や銭の略奪や、城下町や村で攫った人や討ち取った兵から剥ぎ取った鎧兜や刀などを売り払ってその出費を取り返すのですから。
しかも武田領は信虎や信玄の時代からずっと重税がかかるから、なんとしても戦で略奪したいと思うでしょうし。
いろんな説があるが、どうも鉄砲数と質で互角であれば武田軍が勝っていた?それほど武田軍は強かったようだ。ただ過去の織田の戦いを知る旧臣達は「織田が直接来る以上はとにかく勝算大なのだろう」とふんでいたようだ。「兵法の基本~相手を知る」が勝頼は不足していたことは否めない。
@@phoenixgold3593単純に攻城戦を兵数で劣勢な方がやったからだと思う。
長篠の戦いは織田が陣地を築いて、そこに武田が仕掛けるという形になっていたそう。
兵数で3倍の敵に実質的な攻城戦を仕掛けて勝つことは非常に難しい。
@@ゲトリクスうぇるきん
前にしたコメント消えてますが、その説も否定できなくは無いですよね。
武田家家臣達は名門意識とかが強かったらしいですし、元は守護代の家臣筋の織田や三河の土豪上がりの徳川という素性の怪しく身分も低い、卑しくて格下の家柄の相手に戦いもせずにのこのこと撤退する事を主張するのか?とか、彼らだって陪臣(家臣の家臣)や領地の民達に恩賞を出さなければならない立場なのに、戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない上に自分達も陪臣や民達に恩賞を出せない、そうなったら陪臣や民達から自分に対する不満が出る事を容認できるのか?とか様々な疑問があって然るべきだと思います。
背景写真の説明して欲しいテロップでも良いのでお願いします🎉
勝頼には子どもや甥はいなかったのでしょうか?家臣の誰かが武田の血を引いた子を安全な場所に匿うことができたら、一族が滅亡することは避けられたのではないでしょうか?
武田勝頼公の嫡男は、武田信勝公ですね。
信玄没後武田勝頼が生き残れたのは何回か有ると思います。其の一長篠設楽原合戦回避・其のニ越後御館の乱での景虎支援・其の三真田昌幸居城岩櫃入城。この三つが特にターニングポイントではないでしょうかね?其の一では回避にて兵力温存が出来て、其のニでは景虎支援で北条にも借りを作り甲・越・相の新三国同盟が成り足元を強化。其の三では其の一とニが叶わなかった最後の道として真田昌幸の岩櫃城に籠城して織田徳川が攻めて来たならば昌幸得意の岩櫃城の断崖絶壁等の特徴を活かしたゲリラ戦法で城を攻めようとする織田徳川の軍勢を一時的にでも退け持ちこたえる事を考える形でその間に史実通り本能寺の変が勃発した時に勝頼が軍勢を立て直して反撃に転ずる可能性が有ったと感じます。
全部無理だと思います。
設楽ヶ原合戦を回避しても、信長や家康が「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝してきて、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、彼らの離反を誘発していたと思います。
甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
戦の費用や兵糧は家臣や国衆達の自己負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺や陪臣、俺の領地の民達はどうやって食べていけばいいんだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」という風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけになった家臣達は不満を抱いていたでしょう。
仮に家臣や国衆達が不満を抱かなかったとしても、陪臣や民達が不満を抱いたらその声は無視できないから、家臣達は何をしでかすか分からないと思います。
今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれないって私は思います。
仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
御館の乱にしても、謙信死後の上杉家は景勝が継ぐ事でまとまっていたらしいです。 根拠は景勝が謙信から弾正少弼の官位を譲られている事と、謙信死後に景勝の元に諸大名からの使者が多く来ていたからです。
しかし景勝とある家臣が越後の隣国の会津の蘆名絡みで対立し、前関東管領の上杉憲政らが景勝とその家臣の仲裁に動いた。 しかし景勝はその家臣に対し自分に忠誠を誓う内容の誓紙を血判を入れて提出するように求めるなど強硬姿勢だったらしいです。
この事に憤慨したその家臣が景勝派の家臣の城を攻撃し、上杉憲政らもその動きに同調して反景勝派を形成し、自分達の行動を正当化する為の御輿として景虎を担ぎ出したのが御館の乱の実像だと思います。
長く領国を留守にしたら家康の蠢動を許す危険性がある。
北条の動きが少し前まで佐竹と対峙していたとはいえ遅く、自分達だけに景勝と戦わせ、弱ったところを両方とも滅ぼす気ではないかと不信感を抱くのも納得でしょう。
北条家出身の景虎が上杉家当主になったら、武田領が東と北を北条の勢力に挟まれてしまう。 そうなったら北条氏政は武田との同盟を破棄して弟の景虎を操り、武田を東と北から挟み撃ちにしてくるかもしれない。 そうならなかったとしても、武田と北条の力関係が崩れ、武田家が北条の属国のような扱いになるかもしれない。 真田などの上野や北信濃に領地を持つ家臣達が離反してしまうかもしれない。
そこで景勝と景虎の和睦仲介という手を打ち、一度は和睦を成立させたがすぐに破綻。
更に勝頼の懸念が的中して家康が駿河辺りに侵攻してきた。
勝頼が家康の対処の為に越後を離れたのがちょうど北条氏邦だか氏照の軍勢が景勝派の家臣の城を攻めるところだった為に北条に「武田は景虎を見捨てて逃げた」という印象を与えたらしいですが、そもそも氏政が本気で景虎を支援する気があったとは氏政が最後まで越後に討ち入らなかった事を考えるとそう思えません。
氏政は景虎が勝利すれば上杉家を乗っ取る算段がつく、景勝が勝利して景虎が死んだとしても、内乱が長引けば長引くほど上杉家の力は弱まり、関東に侵攻される事はないとどちらに転んでも良かったと考えていたのではと見る方が自然だと思います。
岩櫃城に行くのは甲斐から険しい山道を越えて上野までしかも噴火している浅間山の付近を通りながら行くのは危険だから不可能だと思います。
武田勝頼公 長宗我部元親公 等 知名度低いけど
懸命に努力した 武将こそ 大河ドラマにするべき。
織田?豊臣?徳川? 三英傑は もーエエヨ
土地が豊かなら滅亡はなかったんじゃないかな
勝頼様は強くて賢かったんだね。長篠設楽原の戦さえ引いていたら、歴史は変わっていたかもだよ。
私は長篠で撤退すればよかったとは思えません。
勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めがいずれも失敗したからだったにせよ、ここで撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から離反していたでしょう。
甲斐や信濃の国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
山県昌景や馬場信春らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 しかも武田家は鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門。 一方で信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分も低い卑しくて格下の家柄の相手。
そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
これらの理由から、長篠で撤退していたら、「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺や陪臣、俺の領地の民達はどうやって食べていけばいいんだ。 しかも戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと素性の怪しく卑しい家柄の織田や徳川に喧伝されて俺達の面子は丸潰れだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」と風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣や国衆達が不満を抱いて何をしでかすか分からない。
今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
勝頼が家督継承した前後の武田家の状況
信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
織田と敵対した事で、鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際の今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事、その事で家康を激怒させて武田に無断で今川と和睦し、上杉や北条と結んで武田包囲網を作り、信長に武田と手を切るように何度も求めていたらしい事から無理。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
この状況を打開するにはまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然だと思うし、私もそう判断すると思います。
撤退して仕切り直したら、次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という耕作に向いた地を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。
また、織田に臣従すればという意見もありましたが、それは鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名として勝頼も家臣達も受け入れ難いでしょうし、もし勝頼本人が織田に臣従しようとしたら、家臣達が自分達を守ろうとしない大名などいらないとばかりにかつて信玄が板垣や甘利らに担ぎ出されて信虎を追放したように、勝頼を追放するか殺して排除し、別の誰かを武田家当主に担ぎ出して傀儡当主にすると思います。
@@峻-k5k そうした考えもあるんですね、私とは違う。(凄く長い文面でした!!)
僕は、武田信玄公と武田勝頼公と徳川慶喜公が一番大好き💓♥️❤️です🎵
勝頼公と慶喜公が不運です🎵
大久保利通と後醍醐天皇と伊達政宗公と明智光秀公も大好き💓♥️❤️です
僕は、徳川家康と織田信長と足利尊氏と松平容保と豊臣秀吉が一番大嫌い😭💔です🎵
清州城と安土城と岡崎城と松本城と浜松が一番大好き💓♥️❤️です
親子二代で三国同盟を壊す、というのは、偶然でしょうか?
前の方が面白かった。
家康が徹底して武田を滅ぼそうとしたのも、織田が講和を拒否して根切りに拘ったのも武田勝頼がそれだけ脅威だったと考えています。これは信長の書状からも読み取れますが、実際に織田領が何度もやられていて、軍事だけでなく調略も何度も仕掛けられている。血筋は源氏で若さも能力もある。事業継承の段階に入っていた信長としては非常に脅威だったでしょうね。
長篠の戦いでも徳川の防衛戦に織田が3万とも言われる大軍を派遣するなど普通考えてもあり得ない。あれは徳川の防衛戦で重要拠点を守る戦いでもない。織田側はまだまだ周囲に敵を抱えている状態。そこに信長は3万もの大軍を送った。戦い方も長篠城をすぐに救援するのではなく、馬防柵で徹底して守備を固める方針。不運な事に勝頼は信長がこれほど自分を脅威に感じているとは考えてなかったのでしょうね。
そもそも親父の信玄が信濃攻略後、優秀な嫡男を自ら殺した代償に侵攻しても駿河の一部しか取れず、長期戦略も立てられず10年間停滞させた上に、たった10万石確保と引き換えに優秀な弟信繁を失ったこと。信玄自体は幼少の頃より神童と呼ばれ、甲斐の不利な条件から良くやったと思うし優秀だけど、名声を成した実態の多くをよく見ると信濃の弱小勢力各個攻略だけ。やってることも、騙し討ちや同盟破って火事場泥棒とか信義にもとる事を平然とやってたりと、行動が意外にショボい。逆に10年間に急成長させた信長の方が、既存の枠組みの中で段階を踏んだり、筋を通して進めたりと、意外に真面目。
一門の扱いを受けないで、後継ぎでは無いと宣言されて、武田を切り盛りして、よく頑張った。
この扱いじゃ実力は出せない。信玄を含めて味方から負ける様に仕組まれて、腹が立つ。
私だったら、私は一門じゃないので勝手にやってくださいと書き置きして、出奔します。
信玄公があれほど5年は和菓子を隠せと遺言したのに・・・茶棚に和菓子を隠しておけば食べられずに済んだかもしれません。
上手い掛詞ですね。あっぱれです🎉泰平の眠りをさます蒸気船....を思い起こします😊
こんな戦いばっかりされたら、民や家臣はついてこない。小城をいくら落としても、領国経営ができなければ国力が疲弊していくのみ。
長篠で大敗したのは事実だけど、信玄も何度も大敗して家臣殺しまくってるからね
そこから持ち直せるだけの余裕を時代が彼に与えなかった
上田原の戦いや砥石崩れですね。 信玄の時代にはまだ小勢力が結構残ってましたけど、勝頼の時代には畿内一円、濃尾平野などを領国にする織田家が一大勢力を築いていましたからね・・・
御旗楯無 御照覧あれ、この言葉が大嫌いすぎる。有無も言わせず、大量の鉄砲に突撃とか意味がわからん。
アホだと私たちは思うが、当時の武士は、それが誉れ?だったんでしょ。
そんなのをまったく無視したから、信長は勝ったわけで。
バブルの再来を夢見て
有無を言わせず24時間戦わせ
結果経済の崩壊を招いた現代の日本は
御旗楯無〜を全く笑えない。
最近では逆に山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら重臣達が決戦を主張して、武田家での立場が弱かった勝頼は重臣達の総意を受けて決戦したという話もあるらしいです。
武田家家臣達は名門意識や独立心、領土欲が強い者が多かったらしい。 そんな彼らが素性が怪しく、東美濃攻めでまともに戦っていない織田や、織田と同じく素性が怪しい身で、三方ヶ原で破った徳川を相手に戦いもせずにのこのこと撤退する事を主張するのか?
当主の意見を通しやすい環境だった織田家とかと違い、武田家は豪族達の連合体という政治体制。 そんな中で勝頼が決戦を強行なんてできるのか?という疑問から私はその話を否定はできないと思っています。
そもそもこの時の勝頼の出陣の目的は、家康公の長男信康が城代を務める岡崎城の奉行、大岡弥四郎の内通を受けた岡崎城乗っ取りだった。
しかし大岡の謀反が家康に露見して岡崎城乗っ取りが頓挫。 ならばと三河と遠江の分断を狙って今の豊橋付近にあった吉田城を攻めて失敗した上での長篠城攻めです。
ここで撤退したら、武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで戦いもせずに尻尾を巻いて逃げたと信長や家康が喧伝し、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速するだけの結果になったと思います。
甲斐や信濃の国衆達も、信虎や信玄の時代からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しの撤退じゃ恩賞が貰えない。
遠征費は家臣達の自腹であり、その出費は城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や、討ち取った兵から剥ぎ取った鎧兜や刀などを売り払って取り返すのに、それができない。
しかも武田領の金山は、当時の採掘方法ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣達の遠征費分の出費を勝頼が補填できない。
その事に不満を抱いた家臣達が何をしでかすか分からないと思います。
単なる情弱だったんだろうね。日本では硝石が取れなかったから、勝頼は攻め続けていれば硝石が切れて攻撃は止むと考えていたようだ。しかし、信長は堺を抑えて、長篠までの街道も全て押さえてたから、勝頼の想像以上の硝石を持っていた。
過大評価の武田晴信のとばっちりを受けた将
謙信嫌いの人が何を言う
@@krkm9004
またお前か
しつこいマルチポスター
武田晴信と上杉輝虎のファンのようだ
@@sugisinfkk 嘘ばっかり😊
@@krkm9004
自分でいいね
輝虎ファンのマルチポスト
@@sugisinfkk 嘘ばっかり
まぁ勝頼が悪いのは北条との縁を切ったこと。
あとは信玄が悪い。信玄なんであんなに評価されてるんだろう?
自分の嫡男を殺して、同盟切って今川に攻めて。最後は信長と戦って、病で倒れる。悪手すぎる...
武田は家臣が優秀すぎただけ。
同感
現代の政治の事実も本質も不明な部分が多いのに、500年以上前の話しを自信たっぷりに、さも事実のように解説しない方が良い。ではないか?
まあ不憫なのでかわがってもらう?ようにして(実は我慢)、10年してから変身!!!!!!旧家臣団を入れ替わる→こう絵に描いたようにはいきませんか。ただ私は、実は勝頼は真の敵、武田と信玄軍団を滅ぼし母と諏訪の仇を討ったのだと思っています。とかく信玄はえぐい。好きにはなれない。父を追放、息子も殺す~そんなにしてまで信玄帝国を作りたかったのかな?なら勝手にしろ、ただし家族は巻き込むな~といいたいですよ。勝頼は、諏訪の党首として生き死んだ方が幸せだったと思います。まあここいらは、その人の運というか人生のようですね。